
タケノコは腸内フローラの強力な「掃除屋」
木製のテーブルに、静かに並ぶ皿たち。
そこにあるのは、タイの太陽を浴びて育ったタケノコたちの、慎ましやかな饗宴だ。
レッドカレーの燃えるような赤、イサーン風サラダの深みのある緑、そして、ただ茹でられただけのタケノコが放つ、淡く透き通るような白。
これらが一つの食卓に同居する風景は、どこか人生の終着点を見つめる時の、凪いだ心境に似ている気がするのです。
私はタイで「終活」という、少しばかり重たいテーマを趣味にしています。
けれど、終活とは決して「死」だけを見つめることではありません。
「いかに最後まで、この愛すべきタイという地で、健やかに、そして美味しく生きていくか」
その手掛かりを探すことでもある。
そう考えたとき、タケノコという食材は、私にとって非常に示唆に富んだ存在として立ち現れてくるのです。
タイの日常において、タケノコ(ノーマーイ)は決して主役を張るような華やかな存在ではありません。
しかし、彼らはいつも、刺激の強いタイ料理の「間」を埋めてくれます。
シャキッ。
そのひと噛みが、唐辛子の熱狂で火照った口内を、ふっと正気に戻してくれる。
まるで、騒がしい人生の途中でふと立ち止まり、深く呼吸を整える瞬間のようです。
タイで出会うタケノコ料理には、いくつかの定番があります。
まず、バンコクの食堂で最も親しまれているのが「ゲーンペット・ノーマーイ(タケノコのレッドカレー)」でしょう。
ココナッツミルクのまろやかな甘みの裏側に、唐辛子の鋭い一刺しが隠れている。
その混沌とした熱量の中で、タケノコの軽やかな食感がすっと立ち上がる。
あの瞬間、私はいつも、複雑な人間関係の中に一筋の真実を見つけたような、妙な充足感を覚えるのです。
グリーンカレーに潜むタケノコもまた、乙なものです。
青唐辛子の爽快な辛さと、タケノコの淡い香り。
それは、過ぎ去った若かりし日の、青く切ない記憶を呼び起こすような味わい。
辛さの合間に生まれる「食感の余白」が、次のひと口への期待を繋いでくれる。
そして、忘れてはならないのがイサーン(タイ東北部)の知恵が詰まった「スップ・ノーマイ(タケノコサラダ)」です。
細切りにされたタケノコを、香ばしい炒り米の粉(カオクア)やライム、唐辛子で和えたこの一皿は、少しばかり野性味を帯びている。
発酵した魚のソース(プラーラー)が醸し出す独特の香りは、最初は戸惑うかもしれません。
実を言うと、私も初めて食べた時は「これは、私には早すぎたかもしれない」と、自分の未熟さを痛感したものです。
けれど、今ではその複雑な滋味こそが、身体を内側から温め、生きる活力を呼び覚ましてくれるのだと確信しています。
さて、ここで少し、現実的な「生」の話をしましょう。
タイでタケノコを食べる際、多くの日本人が抱く不安。
それは、衛生面や寄生虫といったリスクです。
これについては、感情を脇に置き、冷静な分析が必要になります。
結論から言えば、タケノコそのものの危険性よりも、それを取り巻く「環境」に目を向けるべきである。
かつては生タケノコによる寄生虫のリスクが語られたが、現在、バンコクの一般的な食堂で使われているものの多くは、工場で加熱殺菌され、袋詰めされた「茹でタケノコ」だ。
これらは非常に安全性が高い。
リスクが潜んでいるのは、むしろ以下のような「曖昧な境界線」に位置する場所だろう。
・市場で、不衛生な洗浄水に浸されたまま並んでいるタケノコ。
・カットされた状態で、常温のまま長時間放置されたもの。
・自家製の発酵タケノコ(ノーマイ・ドーン)の、不安定な製造工程。
かつて、私は路地裏の屋台で、あまりに美味しそうな発酵タケノコの炒め物を口にし、翌日をトイレの住人として過ごしたことがあります。
あの時、朦朧とする意識の中で「これが私の終焉か……」と大袈裟に絶望したのも、今となっては良い思い出です。
けれど、そんな失敗を繰り返すには、人生は少し短すぎる。
だからこそ、賢く楽しむための指針を持っておきたいのです。
ショッピングモール内のフードコートや、清潔なチェーン系のイサーン料理店。
そこで供されるタケノコは、適切に再加熱されており、私たちに静かな安らぎを与えてくれます。
一方で、ローカル市場の生タケノコや、炎天下で売られている発酵食品には、敬意を払いつつも、一定の距離を置く。
この「適切な距離感」こそが、タイで長く、健やかに暮らす秘訣なのです。
タケノコは、タイ料理という激しい音楽の中にある「休符」のような存在です。
主張しすぎず、けれど確実にそこにあり、全体の調和を整えている。
そのシャキッとした歯ごたえを感じるたび、私は自分の人生も、こうありたいと願わずにはいられません。
刺激的な毎日もいい。
けれど、最後にはタケノコのような、静かで、清潔で、それでいて確かな存在感のある「余白」を大切にしたい。
そんなことを考えながら、私は今日も、湯気の向こうにあるタケノコに箸を伸ばすのです。
タイのタケノコ料理は、単なる食べ物ではありません。
それは、慌ただしい日常の中で、私たちが自分自身を取り戻すための、小さな、けれど大切な儀式なのですから。
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