
タイで暮らして気づいた、「何者でもない時間」がある老後も悪くない
「老後の生きがいは何ですか?」
歳を取ると、なぜかこんな質問が増える。
現役時代には誰もそんなことを聞かなかった。
会社に行って、仕事をして、飯を食って、酒を飲んで寝る。それで一日が終わっても、「あなたの生きがいは?」などと確認されることはほとんどない。
ところが仕事を辞めた途端、
「趣味を持ったほうがいいですよ」
「社会とのつながりが大切です」
「何か目標を持たないと」
となる。
会社員時代は「もっと働け」。
引退したら「もっと人生を充実させろ」。
日本人というのは、どうやら棺桶に入る直前まで課題を提出しなければならないらしい。
私は長くバンコクに暮らし、仕事を辞めてから、この「生きがい」という言葉に少し違和感を持つようになった。
老後って、そんなに毎日が有意義である必要があるのだろうか。
肩書きがなくなると、妙に落ち着かない
現役時代には、自分が何者なのかを説明するのは簡単だった。
会社を経営している。
こんな仕事をしている。
今日は誰と会う。
明日は何の案件がある。
予定表には何かが書いてあるし、電話もかかってくる。
忙しいというだけで、なんとなく社会の一員である証明書を持っているような気分にもなる。
ところが仕事を辞めると、それがごっそりなくなる。
月曜日も日曜日も大差がない。
朝起きて、
「さて、今日は何をしようか」
となる。
最初のうちは、これが意外と落ち着かない。
何もしなくても誰にも怒られないのに、自分の中に昔の上司みたいなやつが残っている。
「今日、お前は何をしたんだ?」
と聞いてくる。
いや、昼飯を食った。
それだけではダメらしい(笑)。
長く仕事をしてきた人ほど、成果のない一日に罪悪感を持つ癖がついているのではないかと思う。
バンコクには「何もしていない時間」が結構ある
タイで暮らしていると、そんな価値観を少し緩めてくれる光景がある。
昼前の食堂で、年配のタイ人男性が一人でコーヒーを飲んでいる。
別に新聞を読んでいるわけでもない。
スマホをいじっているわけでもない。
ただ座っている。
しばらくすると知り合いらしい人が来て、少し話す。
相手が帰る。
また座っている。
日本人的な感覚で見ると、
「この人はいったい何をしているのだろう」
となるのだが、たぶん何もしていない。
そして、それで困っているようにも見えない。
もちろん、タイ人高齢者がみんなのんびり暮らしているなどと言うつもりはない。生活が厳しい高齢者も多いし、家族を支えるために働き続ける人もいる。
ただ、バンコクで長く暮らしていると、「何もしないでその場にいる」という時間が、日本ほど後ろめたく見えない場面にはよく出会う。
これが私は結構好きだ。
私自身も、朝にコーヒーを飲み、少しニュースを見て、昼になったから飯を食べる。
暑いので帰る。
少し昼寝する。
夕方になった。
そんな日がある。
一日の成果を会社の業務報告書に書くなら、
「特記事項なし」
で終わる。
売上ゼロ。
新規案件ゼロ。
社会貢献度、おそらく測定不能。
しかし、何の問題もない。
老後までKPI管理しなくていい
それでも世間は、老後の時間に意味をつけたがる。
散歩をすれば、
「健康寿命のためですね」
本を読めば、
「認知機能の維持にいいですね」
友人と飯を食べれば、
「社会的孤立の防止になります」
旅行へ行けば、
「新しい刺激が脳にいい」
昼寝にまで健康効果を求め始めたら、もう逃げ場がない。
散歩くらい、
天気がいいから歩いた。
それでよくないか。
昼寝も、
眠かったから寝た。
でいい。
会社を辞めて、ようやく売上目標や事業計画から解放されたと思ったら、今度は、
歩数
血圧
体重
友人の人数
社会参加
生きがい
という老後版KPIが待っている。
人生最後の人事評価である。
評価者は誰なのか知らないが、かなりしつこい(笑)。
私は老後というのは、むしろ**「意味がないことを意味がないままやれる時間」**なのではないかと思っている。
現役時代には、なかなかできなかった贅沢だ。
「何もしない」と「何もない」は違う
とはいえ、毎日部屋に閉じこもり、誰とも会わず、何にも興味がなくなってしまう状態まで「自由な老後」と呼ぶつもりはない。
そこは少し違う。
私が必要だと思うのは、「大きな生きがい」ではなく、小さな予定だ。
明日はあの店で昼飯を食べよう。
週末に知り合いと会おう。
新しくできたスーパーを見に行こう。
夕方になったら少し歩こう。
今日はNoteを一本書こう。
これくらいでいい。
別に世界を変えなくていい。
新しい資格も取らなくていい。
74歳から自己実現と言われても、こちらとしても少々忙しい。
「人生100年時代です」と言われることもあるが、だからといって残りの時間まで全部プロジェクト化する必要はない。
人生の最後に欲しいのは、壮大なミッションではなく、
「明日、あれをやろうかな」
くらいの予定なのではないか。
この「かな」が大事だ。
やらなくても誰にも怒られない。
終活は「死ぬ準備」だけではない
「どうする!?タイ終活あれこれ」で考えてきたことは、どうしても現実的な話が多くなる。
病気になったらどうする。
介護はどうする。
財産はどうする。
最後はタイなのか日本なのか。
誰に連絡してもらうのか。
葬儀はどうするのか。
全部、大事な話だ。
むしろタイで老後を過ごすなら、避けて通れない。
ただ、終活という言葉を「死ぬための準備」だけにすると、その手前にある長い時間がすっぽり抜ける。
人生の最後の10年、15年が、毎日病院と遺言書の話だけというわけではない。
普通の火曜日がある。
何も予定のない水曜日がある。
昼飯を食べて昼寝しただけの木曜日もある。
そして、たぶん老後というのは、そういう日の集合体なのだ。
大事件ばかり起きる人生など疲れて仕方がない。
何も起きなかった一日は、本当は結構いい一日だったのかもしれない。
「何者でもない自分」でいられるか
若いころは、
何者かになりたい。
評価されたい。
必要とされたい。
役に立ちたい。
そういう気持ちがあった。
仕事をしている間は、それがエネルギーにもなる。
しかし老後になってまで、
「私はまだ役に立っています」
「私はまだ成長しています」
と証明し続けなくてもいいのではないか。
誰かの社長でもない。
誰かの上司でもない。
今日、何の成果も出していない。
それでも普通に飯はうまい。
バンコクの夕方は相変わらず暑いし、近所の食堂は相変わらず適当だ。
そんな日常の中で、
「今日は別に何もしなかったな」
と思って一日を終える。
それを失敗だと思わなくなること。
「何者でもない時間」を普通に過ごせるようになることも、終活の一つではないか。
私は最近、そんなふうに思っている。
老後に立派な生きがいがあれば、それはそれでいい。
なくてもいい。
少なくとも、必死になって探すほどのものではない。
明日の昼飯を何にするか。
案外、そのくらいで人生は翌日までつながっていく。
そして老後とは、たぶんその繰り返しで十分なのだ。
![]()



