大人の南国移住と、心筋梗塞という名の「不法滞在」

保証人も金もない男がバンコクのICUで見た夢の終わり

50歳で会社を辞め、南国の太陽と微笑みに包まれて暮らす。

誰もが一度は夢見るセカンドライフのテンプレートですね。バンコクの路地裏でシンハービールを傾け、屋台の熱気に身を委ねているうちは、人生の勝利者にでもなったような気分に浸れます。

ですが、人生のシナリオというものは、一番盛り上がっているタイミングで嫌な落とし穴を用意しているものです。

例えば、ある日の夜更け。胸を押し潰すような激痛とともに倒れ込み、救急車で病院へ担ぎ込まれたとしましょう。診断は急性心筋梗塞。ここまでは、よくある災難の部類です。

本当の問題は、目を覚ましたあとに訪れます。

「お客さま、カテーテル手術とICUの滞在費で100万バーツ(約420万円)になります。あ、それと次のデポジットもお願~い」

そう笑顔で提示された請求書を前に、あなたの銀行口座にはわずか数万バーツしか入っていない。クレジットカードの限度額はとうにオーバー。日本に頼れる身内もおらず、もちろん保証人もいない。

その瞬間、あなたの優雅なタイ移住は、静かに「医療不法滞在」というサスペンス劇へと切り替わります。

民間病院の冷徹な人道主義

タイの高度な医療技術は世界中で絶賛されていますが、それは「潤沢なカード枠」という免罪符を持っている人だけに向けられた微笑みです。

金がないと分かった瞬間、私立病院の対応は実に見事な手際を見せます。

もちろん、彼らも鬼ではありません。医師法の前で「金がないなら死ね」とは言いませんから、命を繋ぎ止める最低限の処置だけは施してくれます。カテーテルで血栓をザーザーと流し、バイタルを安定させる。ここまでは人道主義の美しい世界です。

しかし、患者の息が吹き返し、命の別条がなくなったと確認された途端、私立病院は驚くべきスピードであなたを「公立病院」へと転送します。

「これ以上はうちの経営リスクになりますので」という無言のプレッシャーとともに。

駆け込み寺の公立病院に横たわる「外国人価格」

さて、ドナドナのように公立病院へ運ばれたあなた。

「ふう、これで一安心。公立なら庶民の味方だし、安く済むだろう」と胸を撫で下ろすのはまだ早いんです。

タイの公立病院は、確かにタイ人にとっては格安(あるいは無料)の医療インフラですが、外国人にとっては違います。受付にはしっかりと「外国人価格」という名の別料金表が存在する。

カテーテル手術にICU、それに続く経過観察。公立病院と言えども、あっという間に数十万バーツ(100万〜200万円)の請求書が積み上がります。

ここであなたが「保証人もいません、デポジットも払えません、一バーツも持っていません」と白旗を挙げたとしましょう。

公立病院のソーシャルワーカーは、困惑した顔でため息をつきます。

「……じゃあ、警察を呼びますね」

そう、公立病院は国家の予算で動いている行政機関です。未払い金を放置することは「公金の流出」を意味するため、私立病院よりもはるかに機械的かつ厳格に法の手続きを進めます。

ICUから収容所(IDC)へ直行するルート

在タイ日本国大使館に助けを求めればどうにかなる、と思ったら大間違いです。

電話の向こうの館員さんは親身に話を聞いてくれますが、最後にこう告げるだけです。 「大使館が医療費を立て替えることは制度上できません。日本の親族に連絡してお金を振り込んでもらってください」

その頼みの親族にも見捨てられた場合、あなたの行き着く先は決まっています。

病院を退院したその足で、迎えにきた警察のパトカーに乗せられ、バンコクにある入国管理局の収容所(IDC)へと送られます。

未払い債務者としてブラックリストに載り、ビザは失効。不法滞在者として、狭く湿っぽい収容所の部屋で、心筋梗塞から回復したばかりの身体を横たえることになるわけです。

周囲を見渡せば、さまざまな事情で国を追われた外国人たち。彼らと一緒に「日本への帰国航空券代」を誰かが払ってくれるまで、果てしない時間を過ごすことになります。

楽園で野垂れ死なないための、ささやかな教訓

50歳からの南国生活は魅力的です。安くて美味しい屋台料理、温かい気候、日本でのストレスからの解放。

ですが、その楽園のすぐ裏手には「金のない老いた外国人を容赦なく排除する」という冷徹な法とシステムの歯車が回っています。

「1,000万円の現金を常に口座に置いておけ」とは言いません。

ただ、年間数十万円の医療保険料を「惜しい」と言って削ったり、「倒れたらその時さ」とタバコを吹かしてスカしたりするのは、あまりにも筋の悪いギャンブルです。

南国で迎える最高の人生の終わり方は、病院の未払い金で警察に囲まれることではなく、冷えたビールを飲みながら夕日を眺めることのはずですから。

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